教えに遇う

阿弥陀如来について

「泥沼の泥に染まらぬ蓮の花」 

浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来立像(南無阿弥陀仏の六字の姿)。蓮の花の座に立ち上がり、私たちの方へ歩み寄り、十方くまなく照らし出す光明のはたらきとして表現されている。蓮の花は仏教を象徴する花。泥沼に根を張り、泥沼を養分として、泥に染まることなく綺麗な花を咲かせる。泥沼とは私たちの思いが作り出す人間世界、我が思いに執着し、我が思いを確かなものとして、自らを損ね他を傷付けていく。そのような私たちのあり方を大きな悲しみの眼の中に見出して、分別の闇を破り、自他共に傷付け合うことを超えて、誰にも代われない、比べられることのない人間に生まれたあなたの縁を尽くしてほしい。形なき願いが象られ大切に相続されたものが、絵像や木像となった阿弥陀如来の姿なのだ。

 

お念仏(南無阿弥陀仏)について

「念仏は私が仏を呼ぶ声ではなくて、仏が私を呼びたまう声」 

南無阿弥陀仏。この言葉をどれだけ多くの人が称えてきたのだろう。人間が紡ぎ出す言葉が絶えてしまうような悲しみの場で称えられてきた南無阿弥陀仏。本願の名号。摂取不捨の真言。いつでも、どこでも、誰にでも、選んだり、嫌ったり、見捨てることのない私の願いを届けたい。南無(信じる心)を阿弥陀仏自身の名告りに込めて人間を念じてきた言葉。なぜなら、人間とは誰から教えられることなく自分を中心に自と他を分け、自分にとって善いか悪いか・損か得か・役に立つか立たないか、分別の闇に沈み、自らのいのちの願いを見失っている迷いの身を生きざるを得ないから。その人間をずっと見つめ念じてきた阿弥陀仏。その阿弥陀仏の願いに触れた時、私もまた阿弥陀仏の御名を呼び返すのだろう。

 

■ 阿弥陀如来について

お念仏(南無阿弥陀仏)について

親鸞聖人のご生涯について