1月2日は真宗会館の修正会に参詣しました。ここ数年、元日は自坊で、翌日は真宗会館の修正会にお参りさせて頂いてます。ご法話は日頃より大変お世話になっている近田昭夫先生。「人の言うことを聞けない私、自分好みで歪んでいく私」というお言葉をありがたく聞かせて頂きました。教えの言葉に遇わないと、自分の姿すらわからない私です。その私を主張してやまないのが人間の根源的な愚かさなのでしょう。親鸞聖人が父のように母のように慕われた聖徳太子の『十七条憲法』に「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり。(中略)其れ三宝に帰りまつらずは、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん」とあります。私の歪みを自覚させて下さる仏のお言葉を、今年も身を据えて聞いてまいりたいと思います。昨日は一日中、年末にできなかった部屋の大掃除を、手を付けるまでは億劫ですが、やり終えると気持のいい充実感があります。部屋が綺麗になったと子供たちにも喜んでもらいました。重い物を何度も動かしたので、少し腰が痛くなりました。年には勝てませんね。(2011/1/5)
2011年を迎えました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。毎年新年を迎えますと、昨年は自分にとってどんな一年であったか、今年はこんな一年にしたいと思いを巡らすのですが、すぐに慌ただしい日常の時の流れに埋没してしまいます。やり直しのきかない一度きりの一生。この一生を作るのが一年であり、一月であり、一週間であり、一日であります。これからも礼拝の生活を大切に、一日一日を丁寧に生きていきたいと思います。今日は朝7時より、新年最初のお勤め修正会が勤修されました。寒い中、早朝よりお参りに来て下さった方々に深く感謝申し上げます。6時前に起床、窓を開けるとまだ夜明け前で、三日月と星が綺麗に輝いていました。その時とっさに思い出したのが、幼少時代に見ていたアニメ一休さんのエンディングテーマの「母上様お元気ですか?」というフレーズ。三日月がニコッと微笑むシーンが記憶に残っているのですが、昨年命終した母親に思いを馳せ、母親と共に迎えた元旦の朝でありました。本堂の準備を終える頃には夜が明けて、朝陽が差し込む本堂で『正信偈』のお勤めと『御文』を拝読し、座敷でお節を頂きました。
今年はいよいよ親鸞聖人の750回御遠忌をお迎えします。昨年末はインフルエンザで体調を崩してしまったので、今年は健康に留意して過ごしたいと思います。(2011/1/1)
11月25日~26日の一泊二日で、京都東本願寺の報恩講にお参りしてきました。本山では11月21日より、親鸞聖人のご命日である11月28日まで、一日三座の法要がお勤めされています。今年は地域のお寺の仲間と25日の逮夜法要に出仕しました。自坊では読むことのない長いお勤め、おまけに音程が高くてついていけない、黙って正座すること1時間、さすがに足がしびれました。でも、親鸞聖人の御影を間近に凛と張り詰めた空気の中、大切な一時を過ごさせて頂きました。毎年のことですが、本山の報恩講ならでは、たくさんの方々とお会いすることができました。また、御遠忌キャラクターの鸞音くんと蓮ちゃんと赤本くんのパレード?にも遭遇しました。夜は同じく東京から来ていたグループと合流し、知人のライブを見に行ったり、カラオケに行ったりと親交を深めました。翌日は後輩お勧めの千本釋迦堂へ、応仁の乱の傷跡を柱に残す国宝の本堂と、重要文化財の仏像を見学しました。特に仏像の展示館は素晴らしく、吸い込まれるように見入ってしまいました。このお寺は真言宗智山派で「大根炊き」という行事が有名なのですが、学生時代ここで「大根炊き」の準備のバイトをしたことを思い出し、何とも不思議なご縁を感じました。次はおみやげを買いに、このお寺の近くにある近為という漬物屋さんへ、妻が学生時代この近くに住んでいたので懐かしかったです。予約をすると店の二階で漬物懐石が食べられ、京都の白味噌の雑煮と温かいご飯と漬物、最後はお茶漬けと絶品です。あいにく満席で食べられなかったのですが、次回は予約したいと思います。それから念願だった六角堂にお参りしました。頂法寺という天台宗のお寺で、屋根が六角形なので、別名六角堂と言われています。如意輪観音を本尊とし、聖徳太子ゆかりのお寺で、親鸞聖人が比叡山での修行に行き詰まられ、29歳の時にこの六角堂で百日の参籠を行ったとされています。地域のお寺の仲間と「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」を行っていますので、感慨深くお参りさせて頂きました。ありがたい2日間でした。(2010/12/1)
11月14日(日)、親鸞聖人に集う報恩講がお勤めされました。テーマは「750年の時を超えて親鸞聖人に遇う」。生きとし生けるものすべてを目覚まして救うことができなければ、私も如来とならないと誓われた阿弥陀如来の大悲心への恩徳と、その如来の大悲心の前に、どこまでも愚直に身を据えられた親鸞聖人への恩徳を今年は特に感じさせて頂きました。ご法話は京都より、大谷専修学院長の狐野秀存先生にお越し頂きました。控室でご挨拶をしたら、バットケースから何やら木の棒が。その棒をひもで結ぶと、次は棒にいくつもの掛け軸がつるされ、それをお持ちになっての本堂入堂。参詣者も何が始まるのかと興味津々。聖教のお言葉が書かれた掛け軸を一つずつひも解きながら、親鸞聖人の出遇われたお念仏の教えの肝要を丁寧にお話し下さいました。参詣された方々も熱心に耳を傾けていました。先生の温かなお言葉に込められた熱い思いに、「今、ここ」において教えに遇うことが疎かになっている自分を言い当てられました。母親のいない初めての報恩講。陣頭指揮を執っていた母がいないので不安でしたが、
前日からのお斎作りも、坊守(妻)を中心に無事作ることができました。当日も配膳のお手伝いを多くの方にして頂きました。重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。来年は750回御遠忌法要。もっと多くの方々に参詣してもらえるよう声をかけていきたいと思います。(2010/11/27)
5ヶ月ぶりに書きます。母の命終から3ヶ月が経ちました。葬儀に際しましては、ご丁重なるご焼香、ご弔問を頂きましたこと、改めまして御礼申し上げます。たまたま長女と息を引き取る瞬間に立ち会ったのですが、その姿はとても厳粛なものでした。「生」の先に「死」があるのではなく、この瞬間が「死」を包んだ「生」であったのだと、「生のみが我等にあらず。死も亦た我らなり。我等は生死を並有するものなり」、清沢満之先生のお言葉をありがたく聞かせて頂きました。「生」から「死」という、生きた分だけ消費されていく時の間を生きるのではなく、生きつつあり死につつある「今」という時を生きていきたいと思います。病を得て6年、母の74年の縁を尽くした一生に、たくさんのことを学ばせて頂きました。ありがとうございました。南無阿弥陀仏。(2010/11/27)
6日はお寺の後輩の披露宴に行ってきました。場所は銀座のとてもお洒落なレストラン、新郎新婦の初々しい姿に心温まりました。お世話になっている先輩が祝辞をされました。「出会うということは別れるということ。結婚するということは相手の人生を狂わせてしまう罪を背負うということ。仏前で結婚するということは、本当のことから問われる歩みである」と話され、最後に吉野弘さんの『祝婚歌』を朗読されました。私も結婚した時に母親が贈ってくれた詩でしたので、懐かしく聞かせて頂きました。最後に新婦がご両親に感謝の手紙を読み、新婦の父親と新郎ががっちり握手をした時、一瞬、娘たちの顔が浮かび熱いものが込み上げてきました。披露宴の後は二次会に、最後は新橋のガード下で、仲間4人と終電まで語り合いました。(2010/6/25)
6月1日~3日まで、京都東本願寺・同朋会館にて後期教習にスタッフとして参加しました。この講座は、前期が真宗会館で行われた『真宗入門講座』で、後半の仕上げの講座となります。前期のメンバーが全員参加して下さり、心温まる再会となりました。新緑の木々に囲まれたご本山で、朝6時の起床から、掃除・お勤め・法話・座談と夜の9時まで中味の濃いスケジュール、専西寺からもご門徒が1名参加されました。「仏の教えを杖の代わりにするのですか?」「悲しみや迷いを失った姿を善人というのです」という先生の問いかけから始まったお話は、どこまでも自分の思いからしか聞くことのできない私たちの姿を言い当てられ、前期での課題であった「身の事実に立つ」ということと繋がったように思いました。新たに仏弟子としての誓いを立て帰敬式を受けられた方々、苦労して作った宣誓文を皆で宣誓されているお姿を後ろで見守りながら、じーんと感動が湧き上がってきました。改めて場の力を感じさせて頂いた3日間でした。参加された方々、本当にお疲れ様でした。(2010/6/25)
21日は地域の大谷派寺院との共催で、『親鸞聖人に人生を学ぶ講座』水曜夜コースの第1回目がありました。夜の講座なので、参加者が集まるか心配でしたが、スタッフを含め40名を超える参加者となりました。こちらも初参加の方が大勢いらっしゃいました。21時の閉会後、反省会があり、それから食事に出かけましたので、スタッフの皆様には遅くまでご苦労様でした。これから隔月の講座と間の月にはスタッフ研修があり、何かと忙しくなりそうです。24日はお寺で『車座の会』が、26日は先輩のお寺で開催されている『論註に学ぶ会』という学習会に参加しました。今回は久しぶりに発表当番が当たっていました。天親菩薩の『浄土論』を注釈した、曇鸞の『浄土論註』を皆で学んでいます。阿弥陀仏のお心は無分別、それは私たち人間は分別する存在であるから。分別とは私たちの意識。自分を愛着する意識。この意識が自分が何かを見たり、聞いたり、感じたりとすべてを対象化して二つに分けてしまう。「分別」という言葉自身に「分かち別つ」という意味があるそうです。分ければ別れていく。共にということからどんどん遠ざかっていく。だからこそ阿弥陀仏は共に我が国に生まれて欲しいと願い、無分別な浄土を建立されたのだと思います。(2010/4/29)
12日~13日は、若手僧侶の育成機関である『教学館』の一泊研修に参加、18日はお寺で永代経法要がお勤めされました。天候にも恵まれ、たくさんの方々にお参り頂きました。前日からのお斎
(食事)の準備、当日の配膳と婦人部隊の方々には大変お世話になり、ありがとうございました。心
より御礼申し上げます。手作りの五目すし、とってもおいしかったです。お話は先生の都合が付かなかったので、小生が担当。昨年の研修会で講師の先生より教えて頂いた、吉川英治さんの詩を皆さんにご紹介させて頂きました。私たちの人生は、今どのあたりを走っているのでしょうか?なかなか考えさせられる詩ですので、以下にご紹介させて頂きます。(2010/4/29)
『人生列車』 吉川英治作
発車駅の東京も知らず、横浜も覚えがない。
丹那トンネルを過ぎたところで薄目をあける。
静岡あたりで突然乗っていることに気づく。
そして名古屋の五分間停車のあたりから、窓の外を見てきょろきょろしはじめる。
この列車はどこへゆくのかとあわてだす。
もしそんな乗客がいたらみな吹き出すに決まっている。
その無知な乗客を哀れむに違いない。
ところが人生列車は全部の乗客がそれなのだ。
10日は地域の大谷派寺院との共催で、『親鸞聖人に人生を学ぶ講座』土曜昼コースの第1回目が開催されました。各寺の積極的な声かけもあって、スタッフを含め80名を超える参加者となりました。初参加の方もたくさんいて、皆さん真剣にお話を聞かれていました。受付や座談会の書記など、門徒スタッフの方々が裏方で支えて下さり、おかげさまで順調にスタートすることができました。ここ数年、教化事業を決める教化委員会に門徒スタッフの方々にも入って頂いているので、住職・門徒の垣根を超えて話し合いができ、とても心強く思います。今後の展開が楽しみです。11日は『永代経法要』に向けての「仏具おみがき会」がありました。12名の方々にご参加頂き、一生懸命ピカールという研磨剤で本堂の仏具を磨いて頂きました。ピカピカになった仏具をお飾りし、最後に皆で『正信偈』のお勤めをしました。参加して下さった皆様、ありがとうございました。(2010/4/28)
4月も残すところあとわずか。何かと忙しい一ヶ月でした。3日は田端のお寺さんで『親鸞聖人に人生を学ぶ講座』の第5回目がありました。テーマは「共に凡夫として」。どこで共にということが成り立つのか。「共に生きることのできない悲しい凡夫よ」と仏様から呼び覚まされる一点において、共なる浄土という大地を賜るのだと感じさせて頂きました。5日~7日は真宗会館で開催された『真宗入門講座』にスタッフとして参加しました。今年度も近田昭夫先生より熱のこもったお話を頂きました。専西寺からもご門徒が1名参加して下さいました。お話の中で「身の事実に立てるかどうか。体は道理のままに動くが、身の事実に心が立とうとしない」というお言葉がありました。身の事実に立てない自分を顧みた時、「身の事実に立てれば」とか「どうしたら身の事実に立てるの」という思いが頭を上げてきます。身の事実に立った姿を思いの中で作り出して、そこに自分を当てはめようとする。近田先生から「何故、二段構えになる!そういうのを往生際が悪いというんだ!」と喝破して頂きました。どこまでも身の事実に立てないという身の事実に立つ。身の事実に立とうとする思いの底が抜けた時に、頭が下がる世界に出遇う。私にとりまして、今回の入門講座は本当にありがたい場となりました。(2010/4/28)
昨日の雑感を書きながら、昨年12月に真宗会館で開催された「カルト」について学ぶ研修会のことを思い出しました。カルト宗教に深く関わられた精神科医の高橋紳吾さんは「宗教の名を借りて、ある種のテクニックと詐欺を使って、カルトのメンバーにし、自由に操って、結局、救いを求めて入った人たちを餌食にして、さらなる被害をもたらすグループ」(『親鸞仏教センター通信』第4号)と言われております。また、カルト性の強い集団の共通する姿として、①強いカリスマ支配 ②終末論(亡国論) ③罰論(応報論)があり、(1)過度な集団アイデンティティ (2)個人生活のはく奪 (3)内外の批判封鎖 (4)絶対服従の集団的特徴があるのだそうです。今、多くの若者が高校や大学など身近な人間関係を通して、カルトの勧誘を受ける機会が増えています。温かな人間関係を作り、断りにくい状況を作ってから、不安と恐怖心をあおって依存心を高める。悩みに対して明快な解決策を与える。実践を勧め、信念を確立させる。出口をふさぐ永続的なマインドコントロールをする。一度入ってしまうとなかなか抜けるのは難しいカルトの問題ですが、誘われても入らない唯一の防衛策が、成育過程で本当の宗教に触れることなのだそうです。子供の頃から見てきたもの、家族が大事にしてきたものとは何か違うという、その感覚が最後に踏みとどませる。お内仏(仏壇)を中心にした礼拝の生活の大切さを改めて思い直しました。子供さんのいるご家庭に、どんな小さなものでもいいから、ご本尊を迎え、手を合わせて仏さまの願いを聞く、礼拝の場所を作って頂きたいと思います。(2011/3/25)
今日はあいにくの雨模様。お彼岸の最終日は静かな一日となりました。この一週間たくさんの方々にお参り頂きました。ありがとうございました。中でも、小さな子供さんを連れて、家族みんなでお参りに来て下さったことが何より嬉しかったです。ご法事の時にもお話しするのですが、大人が手を合わせて礼拝する姿を子供たちにたくさん見せてほしいと思います。お家のお内仏(仏壇)の前で、お寺の本堂で、お墓の前で、今はまだ小さくてそれが何だかわからなくても、大人が手を合わせて頭を下げている、何か尊ぶべき大切なものがそこにあるという記憶が、大きくなって自分の思いに行き詰まった時に、必ずや大きな支えとなってくれると思うのです。血縁や遺産の相続ということは言われますが、心の相続ということを私自身も大切にしていきたいと思います。(2010/3/24)
春のお彼岸も明日が最終日。お中日(春分の日)の彼岸会はどうなることかと思いましたが、天候も回復し多くの方にお参り頂きました。仏教辞典によると、彼岸会は春分と秋分の日を中日として前後3日、計7日間お勤めされる仏事で、平安時代初期から朝廷で行われ、江戸時代に年中行事化した日本独自の仏事だそうです。彼岸(ひがん)とは此岸(しがん)に対する言葉。すなわち迷いの此岸(穢土)から目覚めの彼岸(浄土)に生まれることを願う仏道週間です。春分と秋分の日は太陽が真西に沈むそうです。西に沈む太陽にならい浄土は西方にあると説かれてきました。以前、「西」という字の語源に、鳥が巣に帰るという意味があると教えて頂いたことがあります。帰る場所がはっきりするということは、生きる方向が定まるということ。「あなたはどこに向かい、どこに帰ろうとしているのですか」、「あなたは迷いの身を生きているのですよ」という仏様からのメッセージを聞いていく大事な一週間なのだと思います。(2010/3/23)
8日~9日は真宗会館で行われた教学館(若手僧侶の研修の場)に参加しました。昨年10月から始まりましたので、今回でちょうど半年になります。最初はお互い様子を伺いながらのスタートでしたが、毎月一度、寝食を共にしながら学ぶことで、少しずつ場に信頼感が出てきたように思います。今月も親鸞仏教センター所長、本多弘之先生の熱いご講義を拝聴させて頂きました。11日はお寺で子ども家庭教育フォーラムの荻野ゆう子先生によるカウンセリング講座がありました。テーマは「リスニングとは絶対肯定」。「聴く」ということは、相手の存在そのものを許すことであり、自分の価値観を押し付けないことであると教えて頂きました。講座の中で、建物の柵の間から顔を出している猫の写真を見て、それぞれが感じたことを話すワークを行ったのですが、同じ写真を見ても感じ方が様々で面白かったです。ちなみに私は「早く誰か迎えに来ないかな」という言葉が思い浮かびました。幼稚園の頃、母親が忙しかったので、お迎えがいつも一番最後で、ひとりサッカーボールを塀に向かって蹴っていた頃が思い出されました。猫の姿から記憶の底にある自分が投影されました。また、存在を絶対肯定されるからこそ、自己一致し、我が身を受容することができるのだと、絶対肯定⇒自己一致⇒受容ということが自分の中でつながった一日でした。(2010/3/18)
6日はご法事の後、求道会館親鸞講座へ。講師は福井県よりご出講頂いている蓑輪秀邦先生。昨年、自坊の報恩講にもお越し頂きました。私はこの講座で受付スタッフをさせて頂いています。今回のお話の中で「私たちの生きている世界はたらればの世界。もしこうだったらとか、ああすればよかったとか、どうにもならないことをぼやく。これを愚痴と言うのです」というお言葉がありました。以前、ある先生に「愚痴ということは、何でも知ってわかっているような顔をして生きている人間に向かって、あなたは愚かな病気にかかっていますよという、仏様からの大切なメッセージなのです」と教えて頂いたことを思い出しました。「浄土宗のひとは愚者になって往生す」という、親鸞聖人が大切にされた法然上人のお言葉がありますが、この愚かさの自覚こそがすべての人とつながっていける唯一の地平なのではないかと最近改めて感じています。(2010/3/16)
3月に入り、何かと忙しく過ごしていました。4日~5日は東京教区の会議で山梨の石和温泉へ。
今回は報恩講についての問題提起が当たっていました。報恩講とは浄土こそ真(本当の)宗(よりどころ)であると頂かれた親鸞聖人のご命日に出遇う、一年に一度の大切な法要です。今年は聖人が亡くならて749年目、来年は50年に一度の750回御遠忌法要がお勤めされます。しかしながら、準備に追われるばかりで、私たちにとって本当に大切な法要になっているのだろうか。どこか年中行事のような感覚でお勤めしてはいないだろうか。「大切な法要だから必ずお参りして下さい」とどこで言えるのか。自戒の意味を含め問題提起させて頂きました。講師の常盤知暁先生からは「報恩講は、親鸞聖人の師である法然上人の月命日に行われていた25日の念仏会が出発点であり、これこそが真宗僧伽の原点である。僧伽とは信仰告白によって形成される共同体。その僧伽によって人が誕生し、人が育てられていく。何故、この私が仏法の縁に遇うことができたのか。報恩講とは僧伽に対する報恩の仏事である」と熱く語られました。お寺にご縁を頂きながら、一度も報恩講にお参りされることもなく亡くなられた方がどれだけいたことだろうか。日々お勤めさせて頂いている法事や葬儀の場で出会った方々に「報恩講に是非お参りして下さい」と心から言える関係性を大切に作っていきたいと思います。(2010/3/16)
昨日は月に一度の車座の会。いつもは本堂で行っているのですが、今月はお寺から外に出て、 江東区北砂にある東京大空襲・戦災資料センターを見学に行きました。1945年(昭和20年3月10日)の未明、約300機のアメリカ軍爆撃機B29による東京下町地区を目標にした無差別爆撃で、人口過密地帯は火災地獄と化し、被災者は100万人を超えて、推定10万人もの尊い命が失われました。専西寺の本堂もこの空襲により全焼し、今の本堂は昭和31年に再建されたものです。ご本尊と過去帖だけは、防空壕の中で大切に保管されていたため難を逃れました。昭和62年より庫裡を改築したのですが、基礎工事をしていた時に焼夷弾の不発弾が3発出てきて、警察の爆弾処理班の方に来て頂いたことが思い起こされます。今回、このセンターを訪問することになったのは、沖縄出身のシンガーソングライター玉城まさゆきさんとお会いしたのがきっかけでした。玉城さんは私と同年代なのですが、沖縄終戦の日、6月23日をとても大事にされていて、戦争を知らない世代だからこそ、過去にあった悲惨な出来事をきちんと学び、二度と起こさないよう伝えていくことを大切に活動されています。本堂が焼け、不発弾が出るなど身近に戦争の傷跡を感じながら、なかなか学ぶ機会がなかったので、今回、会のメンバーと訪問することができて本当によかったです。皆さんもぜひ一度足を運んでみて下さい。そして、3月10日に思いを寄せて下さい。「一番大切なものが失われていく。それが戦争です」昨年の追悼法要での先生のお言葉が身に響いてきました。(2010/2/28)
2月20日、中学時代有志による同窓会に出席しました。会場は友人が経営している赤坂のバー。
めったに来ない赤坂駅に下り立ち、TBSや赤坂サカスを見てお上りさん状態。今回一緒に幹事をした友人と待ち合わせ、歩くこと1、2分で会場に到着しました。今回の企画は、この友人からの「久しぶりに集まろう!」とのメールがきっかけでしたが、これに先立ち2年前位でしょうか、池袋でもう一人の友人に声をかけられたのが一番のご縁でした。それから2回ほど食事会を開催、今回はお互いのつながっている人に広く声をかけてみようということで、20名の仲間が集まりました。数年ぶりに会う人、卒業以来27年ぶりに会う人など、中学時代にもあり得ないメンバーの再会に大いに盛り上がりました。みんな42歳のいい中年となり、太った人、頭が薄くなった人など容姿はそれなりに変わりましたが、声やしぐさなどは中学時代のままでとても懐かしかったです。二次会はカラオケボックスへ。懐メロソングをみんなで歌い、改めて時の流れをかみしめました。一期一会の素敵な再会にたくさんの元気を頂きました。(2010/2/26)
2月7日に真宗会館の日曜礼拝で、9日に大谷派の港区・世田谷区を中心としたブロックの研修会でお話しさせて頂きました。日曜礼拝は今回で3回目。後輩の職員に頼まれて思わず引き受けてしまったのですが、毎回、緊張しながらお話しさせて頂いています。私の話の前に、座談会の進行役の補導さんが感話をするのですが、3回とも偶然、私がお世話になった先生のお孫さんが担当して下さったのでお顔を見てホッとしました。口下手な私が数年前からは考えられないことですが、「話すことは聞くことです」という先生の言葉に後押しされて、座談会での皆様のお言葉にたくさんのことを学ばせて頂きました。研修会は9月から毎月6回にわたって担当させて頂く『親鸞聖人に人生を学ぶ講座』の事前学習会。これまでの自分の歩みを中心にお話しさせて頂きました。出されたご意見を踏まえ、精一杯お話しさせて頂きたいと思います。懇親会では久しぶりにお会いした先輩方と楽しい一時を過ごさせて頂きました。(2010/2/11)
1月23日、お寺の新年会を行いました。本堂でのお勤め、住職の年頭挨拶の後、座敷に会場を移して懇親会を行いました。新年会は今年で6回目になるのですが、初めて参加された方、数年ぶりに参加された方、また、今年は東京三組(地域の大谷派の集まり)から、門徒会長さんと会員さんも参加して下さって、私たち家族を含め賑やかな会となりました。初めて参加された92歳のダンディーなおじい様に皆さんびっくり。第二次大戦中にビルマで現地の人から仏教徒の誓いの言葉である『三帰依』を教えてもらったお話を披露して下さいました。お帰りの際には皆さんから握手攻めにあわれていました。カラオケも大いに盛り上がりました。「お寺に来てこんなに楽しいのは初めてです」とおっしゃって下さったその笑顔に、場を作れば自ずから関係が開かれてくるものなのだと改めて思いました。(2009/1/31)
遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。年末年始と皆様いかがお過ごしでいらっしゃいますか?私は7年間使っていたパソコンがついに壊れてしまい、新しいものを購入したのですが、使い方がわからず格闘しておりました。今まで使っていたものは2002年に購入したウィンドウズXPで、ここのところ冷却ファンがブンブン回りだし、回りだすと30分は作業ができず、最後は電源ランプが点滅し始め、ついに電源が入らなくなってしまいました。今度のはウィンドウズ7でオフィスも2007と進化したのですが、ワードなどページのデザインが変わり、ボタンがどこにあるのかわからずストレスの溜まる日々を送っています。壊れる数日前に住所録とデータのバックアップを取っておいて本当に良かったです。ソフトを入れ直したり、プリンターやインターネットやメールの設定など面倒なことが多いです。自分がパソコンを操っているのかパソコンに自分が操られているのかわからなくなります。やっともとの環境に戻りましたので、ボチボチ更新していきたいと思います。話変わって元日の午前7時より、新年最初の行事である修正会(しゅしょうえ)をお勤めしました。修正会とは、過ちを改め正しきを修めるという意味で、去った年を見つめ直し、新たに迎えたこの一年をどう生きるのか、仏さまの前でお誓いする大切な法要です。寒い中、朝一番でお出かけ下さった方々には感謝感謝です。今年も南無阿弥陀仏のいわれを聞き開く礼拝の生活を大切に続けていきたいと思います。翌2日は、真宗会館の修正会に母親と参詣しました。ご講師は近田昭夫先生。いつもながらのパワフルなご法話に身が引き締まる一時を過ごさせて頂きました。(2010/1/3)
12月8日、劇団前進座による『法然と親鸞』の観劇に出かけました。15名の方が参加して下さいました。この演劇は、2011年にお迎えする法然上人800回忌と親鸞聖人750回忌の記念講演で、浄土宗と浄土真宗の両方が後援しています。今年度の同朋の会で佐々木先生より、法然上人のお話も交えて親鸞聖人のご生涯を伺ってきたので、より親しみを感じながら観劇させて頂きました。演劇なので演出があり、自分の想像する親鸞聖人像と違うところもありましたが、舞台のセットなどはとても凝っていて素晴らしいと思いました。一番印象に残った場面は、承元の法難で吉水教団が弾圧され、法然上人も土佐への流罪が決まった時に、念仏を称えることをやめるよう進言する門弟に向って「田舎の人々への布教もかねてからの念願であった。この度の弾圧は弥陀のご催促と申すべきか。たとえ死罪になろうとも称名念仏止むことなし」と看破し、門弟一同「南無阿弥陀仏」と念仏を称えるシーンでした。お念仏を申すことをやめたら、生きるということそのものが成り立たないという力強い信念を感じました。あなたにとってお念仏申すということは、どのようなことであるのか。法然上人・親鸞聖人からの声が聞こえてくるようです。(2009/12/14)
11月24日~25日にかけて、本山東本願寺の報恩講出仕のため京都に行ってきました。紅葉と修学旅行のシーズンと重なり、京都駅を下りるとすごい人出で外国の観光客の方も多く見かけました。東本願寺の前は観光バスが何台も駐車し、親鸞聖人のお木像を安置している御影堂には、全国からたくさんのご門徒さんが参詣に来られていました。本山では21日から28日までの一週間、報恩講の法要がお勤めされます。11月28日は親鸞聖人の御命日、年に一度、748年前に亡くなられた親鸞という人に出遇い、聖人が90年の生涯をかけて伝えてくださった南無阿弥陀仏の教えを我が身の上に聞き開いていく大切な日です。法要出仕は今年で3年目、お勤めの時間が長くて大変ですが、年に一度、身も心も引き締まる大切な時を過ごさせて頂きました。枳殻邸(きこくてい)も紅葉がとても綺麗でした。(2009/11/27)
11月23日の勤労感謝の日、息子の幼稚園の保育参観に行ってきました。朝送りに行って下駄箱で靴を履き替えるまでは見たことがあったのですが、その後の身支度もてきぱきとこなし、友達と楽しそうに過ごしていました。歌を歌ったり、一緒に工作をしたり、園庭でサッカーをしたりと、ポカポカ陽気の中、私にとってもいい気分転換になりました。午後からは家族総出で柿取りをしました。一昨年、小枝を落として昨年は生らなかったのですが、今年は木が若返りたくさん実を付けました。小学生の頃を思い出して、はしごをかけて休憩所の屋根から木に登り、収穫の喜びを味わいました。(2009/11/27)
今日はお寺で子ども家庭教育フォーラムの荻野ゆう子先生によるカウンセリング講座がありました。今回のテーマは「防衛の気付きと見立て」。初めに日本精神衛生学会大会での対人援助についてのお話を先生より紹介して頂きました。その中で「援助とは、溺れている人に大きな船を渡すのではなくて、その人の体に合った浮き輪を投げること。その人自身の持っている浮力を信じ、その人の浮力を引き出してあげること。援助される側に自分もよく踏ん張ったという気付きが持てることが大事である」というお言葉がありました。私も介護と子育ての経験がありますが、知らず知らずのうちに面倒なことは早く済ませるといったような、対人援助に効率を求めてしまうのですね。援助する側からされる側主体の目線を持つことが大事なことと思います。そんなことを考えていたら、お釈迦様のことを思い出しました。お釈迦様のご説法を対機説法と言いますが、一人ひとりの苦悩に寄り添い、その人のその時の状態に合った説法をされたのだそうです。上から教え諭すのではなくて、その人自身に気付きを与え、立ち上がるきっかけを作ってあげる。お釈迦様とはまさに対人援助のプロフェッショナルだったのだと思います。防衛ということでは、人は自分の弱点を衝かれたくないから防衛するのですが、「弱い自分を受け止めてもらえなかったから、弱い自分を聴いてもらえなかったから防衛するしかなかった」という言葉が印象に残りました。自分に防衛があるように、相手にも防衛がある。防衛せざるを得なかった自分の心を抱きしめることができれば、相手の防衛にも優しく接することができるのだと思います。(2009/11/26)
一昨日の日曜日、親鸞聖人に集う報恩講がお勤めされました。天候にも恵まれ、70名ほどの方がご参詣下さいました。今年度より御遠忌までの3年間は「宗祖としての親鸞聖人に遇う」を報恩講のテーマに、偉人としての親鸞聖人ではなく、阿弥陀の願いによって苦悩する一生を生き抜かれた親鸞聖人に出遇ってまいりたいと思います。今年度のご法話は、求道会館親鸞講座でお世話になっている蓑輪秀邦先生に福井よりご出講頂きました。総代さんのご実家が先生のお寺というご縁もありました。ご法話での「恩とは今という果からどこまでも因を尋ねていくこと。因を知り出遇っていくこと。報恩講で一年が終わるのではなく、報恩講から一年、365日を尽くしていく歩みが始まるのです」というお言葉が印象深く残りました。毎年のことですが、報恩講が近づくにつれ家族の中にピリピリした空気が流れます。本堂掃除に庫裏の掃除、仏具のおみがき、お斎の準備、その他細々とやることが多く、思うような段取りにならないとついつい口論になったりします。共に生きることを願われている仏事でありながら、共に生きることのできない我が身が知らしめられる。効率を考えればいろいろと方法もありますが、この煩わしさが実は大事なことではないかと今年は特に感じ入りました。雅楽の厳かな雰囲気の中、11名の僧侶による年に一度の雅やかな『正信偈』のお勤めも、息が合ってお勤めをしていてとても気持ち良かったです。今年は地域のお寺の最後の報恩講となったので、懇親会も先生を囲んで盛り上がりました。(2009/11/17)
11月6日、東京教区で担当している部門の内部研修として、「同朋会館における真宗本廟奉仕50年記念講演」に駐在さんと参加させて頂きました。この記念講演は、同朋会館が建設され、本廟奉仕が始まり、今年が50年の節目にあたることから企画された記念講演で、今回から4回にわたって開催されます。初回の講師は高岡教区の立野義正先生。85歳のご高齢でありながら、最後の上山奉仕だからと自ら奉仕団を結成され「同朋会運動はいつはじまるのか」という刺激的な講題でお話し頂きました。先生は「同朋会館ができた当時は何かせずにおれないという意気込みがあった。最初はもっと素朴で俗っぽさがあった。今日は俗っぽさが消えた。俗っぽさは時代社会との関わりである。今の時代社会の中で、足を地に付けるということが50年の節目に問い返されるのではないか」と熱く語られました。 本廟奉仕が始まった当時は、企業の新入社員研修や、他の宗教団体の奉仕団もあったそうです。「やらなければならないということではだめだ。せずにおれないということにならなければ」30年続けてきた自坊の同朋の会を義務感を感じて解散し、御命日の集いからもう一度取り組み始めているという先生のお姿に、内容を問わずお寺で会を開けば同朋会運動をやっているという錯覚に陥っていく自分のあり方が厳しく問われました。自己の問題が抜け落ち、惰性で会をやっても空しいだけなので、自分の問題をごまかさず隣の人の思いに耳を傾けながら歩んでいきたいです。(2009/11/17)
昨日の午前中本堂で、子ども家庭教育フォーラムのチーフカウンセラー、荻野ゆう子先生によるカウンセリング講座がありました。この講座はもともと近所の文京学院大学で開講されていて、私も6年前からカウンセリングの学びでお世話になっているのですが、ご縁がありまして今期より木曜日の講座を専西寺で行っています。今回のテーマは「枠組の差異と多面性」、先生より様々な事例が提起され、2人ペアになって、時には4人一組になって、お互いの言葉に耳を傾けながら気付きを分かち合います。自分の枠組(価値観)と相手の枠組(価値観)、その枠組も、その人の生まれ持つ個性、育った時代や環境、人生経験により様々です。自分の枠組に近い人とは一緒にいたいけれど、遠い人とは一緒にいたくない。狭い空間の中で自分と違う枠組を持った方と向き合うことによって、自分の持つ枠組に改めて気付かされます。これは仏法聴聞ととても似ているなと思いました。「聴くことは意識してできるけれど、聞こえるということは意識してできない。自己理解は他者理解であり、他者理解は自己理解である」という先生のお言葉がありがたかったです。(2009/11/13)
11月9日~10日の一泊二日で、真宗会館にて開催された教学館に参加しました。初日の講師は本多弘之先生(親鸞仏教センター所長)、休憩なしの2時間ぶっ続けのご講義、先生の湧き出るように話されるお姿に感銘。特に「宗教において教義学が完成することは、宗教として死ぬことだ」という安田理深先生の言葉を紹介され、「わからないけれど響いてくることが大事、解答を求めてはいけない」という大切な聞法の視点を頂きました。2日目の特別講義は評論家の芹沢俊介先生。「現代の孤独と隣人」というテーマでお話し頂きました。秋葉原で起きた無差別殺傷事件を手がかりに、イギリスの児童精神学者であるDW.ウィニコットの「子供は信頼する誰かと一緒にいる時に一人になれる。子供のことを一番知っているのはお母さんである」という言葉を紹介されました。幼児期の砂遊びの例では、お父さんやお母さんが近くにいることを感じた時、子供は一人になる(自立)することができる。存在そのものの受け止め手を見出せないで育つと、いつも心の中に空白を感じ、それを埋めるために様々な依存に陥っていくということを指摘されました。特定の誰かがいないから、特定の誰かを探さなければならない。誰でもいい誰か、何でもいい何かを求めることで依存になっていく。そのような心に空白を抱えた人の傍らに寄り添える人、隣に居続けることのできる人、そのような隣る人こそが求められているのだそうです。自分の身近な人間関係の中で、その人の隣る人になれているのだろうか?深い問いを頂きました。(2009/11/12)
昨日は午後から報恩講に向けての仏具おみがき会がありました。初参加の方3名を含め、14名の方が参加して下さいました。皆さんに一生懸命磨いて頂き、本堂の仏具も輝きを取り戻しました。前回のおみがき会は秋のお彼岸前、まだ2ヶ月しか経ってないので、そんなに汚れてないと思っていたのですが、磨いてみると結構汚れているものです。掃除やおみがきをしながらいつも思い出すことがあります。お釈迦様のお弟子であった周梨槃特(しゅりはんどく)さんのお話です。この方はものを覚えるのがとても苦手で、聡明であったお兄さんと比べられ辛い思いをされてきました。そのような時にお釈迦様は優しく声をかけられたと言います。「自分が愚かだと気付いている人は智慧のある人です。愚かであるのに賢いと思っている人こそ本当の愚か者ですよ」と。そして1本の箒を授けて「塵を払わん、垢を除かん」と掃除をしながら唱えなさいと教えられました。来る日も来る日も唱え続けていたその時、自分の中の貪りの心・怒りの心・本当に大事なことがわからない心こそが、払うべき塵、除くべき垢だと自覚して悟りを開かれました。おみがきとは、ピカピカになった仏具に映し出された私たちの心を点検する大切な時間なのかもしれません。(2009/11/8)
先週の土曜日、お寺で車座の会(仏教青年会)がありました。20代から40代までの9名の方が参加して下さいました。『正信偈』のお勤めの後、テキスト『あなたがあなたになる48章』の中の1章を皆で輪読し座談をしました。今月の発題者から「人間らしさとは何だろう?」という提起がありました。自分の中で考えていたのですが「悲しむことのできるもの」という言葉が浮かんできました。今から20万年前より生存していたとされる、私たち人間の祖先、ネアンデルタール人の遺跡から人を埋葬した形跡が見られるそうです。大切な人の命終という厳粛な事実の前に、悲しみの涙を流し、一心に手を合わせてきたのが私たち人間なのではないでしょうか。涙を流すこと、手を合わせることができなくなってしまったら、姿は人間であるかもしれないけれど、もはや人間でなくなってしまうのではないかと思います。(2009/10/30)
今週の日曜日、お寺の同朋の会がありました。天気も良かったせいか16名の方が参加して下さいました。今年度は長野県塩尻市より佐々木正先生をお招きし、親鸞聖人のご生涯についてお話を頂いております。その中で、「自力聖道門は難行であり、他力浄土門は易行であるというけれど、私たちの日常生活は自力聖道門そのものではないか」という問いかけがありました。考えてみるとそうですね。自分の力を頼みに、自分がやればやるほど向上したいし、評価されたい。上へ上へ登って行きたいのだと思います。そしてこの日常の立場から仏道を見た時に、難行こそが優行となり、易行は安易な劣行となるとご指摘頂きました。物事を為せばなす程、人との差別化をはかる自分、為さない人をおとしめていく自分、共にたすかっていくという浄土の教えからどんどん遠ざかっていく身の事実が浮き彫りにされました。「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して・・・」という親鸞聖人のお言葉が身に響いてまいります。(2009/10/22)
昨日、息子の幼稚園の運動会がありました。昨年はご法事があり見に行けなかったのですが、今年は珍しく予定が空いていたので、家族5人で応援に行くことができました。秋晴れで絶好の運動会日和、息子も張りきって演技していました。上の娘2人も同じ幼稚園に通っていたのですが、実は私もこの幼稚園の卒園生。お弁当を食べている時にその話をしていたら、息子の同級生のお母さんにびっくりされました。園庭などは変わってなくとても懐かしかったです。懐かしいといえばもうひとつサプライズが。休んでいたらいきなり中学時代のあだ名を呼ばれて、振り向くと見知らぬ顔が。「俺、○○」「あー○○か」ということで、中学時代野球部で一緒だった同級生でした。話をしたところ息子と同じクラスに娘さんがいるとのこと、20数年ぶりで昔話に花が咲き、連絡先を交換後、再会を約束して別れました。来年は年長さんなので、花形競技のリレーがあります。予定が立てば是非来年も応援に行きたいです。(2009/10/12)
昨日、「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」の講師として、田端のお寺さんに伺いました。この講座は2011年にお迎えする親鸞聖人750回御遠忌の東京教区(一都八県)の記念事業として企画されたものです。今回この講座に出講する講師は35歳~50歳までの若手僧侶、私もちょうど真中の世代にあたりますので、この度声をかけて頂きました。全7回のうちの第3回目の講座。今回のテーマは「出遇いのよろこび」。親鸞聖人が比叡山から法然上人のもとを訪ねられ、本願念仏の教えに帰されていくドラマティックなシーンが範囲でした。法然上人との出遇いについては『歎異抄』第2章に「法然上人にだまされて地獄に落ちても後悔しない」という有名なお言葉がありますが、ここでいつも思い出すのが藤田ジャクリーンさんのことです。フランス語訳の『歎異抄』を教会で読んだジャクリーンさんは、まさにこの言葉に衝撃を受けられ「親鸞おじさんに遇いたい」とシベリア鉄道に乗ってフランスから日本に来られたそうです。ところがその『親鸞おじさん』は700年前に亡くなっていた方と知ってびっくり、その後、京都で仏教を学ばれ縁あってお寺に嫁がれたとのことでした。人生を左右する言葉や人との出遇い。皆さんはどんな言葉や人と出遇っていますか?(2009/10/11)
昨日から一泊二日で真宗会館で開催された学習会に参加しました。その名も「教学館」、今月から毎月一度、2年半にわたって開催される若手僧侶の学びの場です。仏教のお話だけでなく、キリスト教やカウンセリングなど、他分野の方々のお話も聞けるので楽しみです。今回私は班担当のスタッフとして参加するご縁を頂きました。18人の研修生と3人の研究員、主幹と専任講師、そして担当の職員さん、総勢20名を超える船出となりますが、無事帰港できるように勤めたいと思います。(2009/10/9)
今日は上の娘が通っている中学校の学園祭に家族で出かけました。起床時間も早くなり、慣れない制服と電車通学、心と体の成長と共に不安定な年頃になって、どうなることかと心配しましたが、吹奏学部での堂々としたフルートの演奏を聴き、親の心配をよそに子供は自ずから成長していくものなのだと改めて思いました。子離れできないのは親の方かもしれませんね。(2009/10/4)
昨日は終日わが大谷派の関東の拠点である真宗会館に出かけていました。午前中は「親鸞聖人御命日の集い」に参詣。28日は月命日に当たりますので毎月法座が開かれます。ご法話は日頃より大変お世話になっている近田昭夫先生。『蓮如上人御一代記聞書』の中から赤尾の道宗さんのお話を頂きました。道宗さんは越中富山の熱心な妙好人(聞法者)で「幾度聴聞申すとも、めずらしく、はじめたるようにあるべきなり」というお言葉を残されています。「仏法は聴聞にきわまる」と言われますが、一度聞いた言葉を日常の記憶の中に取り込んでしまい、わかったこととして済ませていく問題を自分自身感じていましたのでとても考えさせられました。「体の耳は聞いているのに、心の耳が聞かない」というお言葉が突き刺さりました。午後はご法話の余韻に浸りながら「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」の講師研修に参加しました。(2009/9/29)
9月24日~26日まで、石川県加賀温泉にある光闡坊の報恩講安居にお参りしてきました。今年は2泊3日での参加です。このお寺は蓮如上人が開かれ、上人の四男であった蓮誓(光闡坊)が守られていたことから光闡坊と呼ばれています。今このお寺を住持されているのは佐野明弘先生、臨済宗僧侶から真宗の僧侶となられたとても素敵な先生です。縁あって一昨年から報恩講安居に毎年お参りさせて頂いています。今年のテーマは「たすけとぐること、きわめてありがたし―救いなき身をいきるとは―」、3泊4日の日程は、朝6時の起床から、お勤め・掃除・法話・座談と夜9時までとても濃厚なスケジュール。北は青森から西は熊本まで、全国各地から同行の方々が参加されていました。ちなみに東京からは4名。寝食を共にしながらの聴聞の場は一日一日と場が暖まり、日常を照らし出す貴重な場だと改めて感じました。「救いなき身を生きるものよ」という仏からの呼びかけに「はい」と言い切れないものが残る。仏智を疑うほど自分を信じている姿が浮き彫りにされました。最後に先生の奥様におかれましては、三度三度の食事(精進料理)の準備をありがとうございました。とてもおいしかったです。(2009/9/27)