コロナに思う

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コロナに思う

2020-08-21

久しぶりの投稿となります。まずもって、新型コロナウイルス並びに豪雨災害で被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。未知のウィルスと自然の猛威は、社会の脆弱さと人間の無力さを突きつけ、私たちの日常生活を大きく揺さぶるものとなりました。緊急事態宣言を受け2月末よりお寺の行事が休会となりました。『正信偈』の同朋唱和、車座になっての座談会、その後の懇親会など、阿弥陀さんのもとで、共に教えを聞き、語り合うことをいのちとしてきた真宗寺院にとって、聞法の場を開くことができないことは、その存在意義を失う事態となりました。収束の見えない不安、迫りくる恐怖の中で、多くの方が一瞬でも自らの死を考えたことと思います。大切な人と会えない。大切な場所に行けない。あたりまえだったこれまでの日常が崩れていく。私もまた不安の中、恐怖に怯える一人であります。そのような時、以前ご法話で伺った『仏説無量寿経』の一節「見老病死 吾世非常」(老病死を見て、世の非常を悟る)が思い起されました。この一文は、釈尊が他人事であった「老」と「病」と「死」が初めて自分の問題になった時、この世に常なるものなど一つもなかったと悟られたお言葉です。思えば、私たち人間はいつの時代も自分の都合の良い常なるものを求めてきました。しかしながら、自分を支えていた若さは老いることによって崩れ、健康は病気によって崩れ、長寿は命終によって必ず崩れていきます。サンスクリット語で「世間」(loka)とは、崩れ去っていくものという意味だそうですが、大変厳しいお言葉ですが、これこそが生老病死の道理を生きる私たちの身の事実なのでありましょう。同じとか、またなどどいう日は一日も生きたことがない。コロナ禍の前もコロナ禍の只中も、非常な身がここに生きている。そのことに目覚めよと、阿弥陀さんから南無阿弥陀仏と呼びかけられているのだと思います。行事の見通しも今だ立っておりませんが、文書伝道やネットを使った伝道など、今できることを少しずつ取り組んでまいりたいと思います。